ある事象に引き続いて他の現象が必然的・規則的に生ずるとき、それらには因果関係があるといい、これを原理として立てるとき、この法則因果律という。

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考える。そして時は流れてゆく。

私は、ただぼうっとしていた。

私の手が動くのを、じっと見ていたに過ぎない

手が勝手に描いた模様を見ていた。

それ以外に説明のしようがないのだ。

このように、人がなした行為でさえ、無意識、無意図のものが存在する。

人は常に理由を持って行動するのではない。

それにもかかわらず、常に理由を探そうとする。

まして、人が関わらない自然現象であれば、そこに、意志や意図を見つけ出そうとすることが、結果的に歪んだ解釈を生み、間違った結論へと人を導くことにもなるだろう。

古来、幽霊や妖怪をはじめとする想像物は、人々を驚かすために生まれたものではない。それらは、未知の現象に対する一種の安心な解答であった。そして、その生い立ちは、人が必ず持っている、意志の存在を見ようとする欲求に起因するものだ。意図がないものほど恐ろしいものはない。意識のないものからは、逃れようがない。雷や大波に対しても、だから、何らかの意志が存在すると強引に解釈して、ひとまずは細やかな安心に縋りついた。

空気中の気体が酸化する現象を見て、そこに人の魂があり、あるいは怨念があると発想する。おそらくは、そこには、心や意識が何ものにもまして強く、高く、そして尊いものだ、という願望も込められていただろう。何らかの意志が介在すれば、その意志を理解することで、魔物を封じることができる。生命の不滅を望む意識もまた、この種の幻想を鮮明にしたはずだ。

しかし、翻って考えれば、これらとは逆のケースも多い。自然現象のように見えても、実は密かに意図が隠れている場合である。人間の社会には、とてもとても多い。ブーム作為的に作られ、大衆の意見はマスコミによってコントロールされている。市民運動ボランティア活動のようなものでさえ、真に自主的な行為は少ない。必ず誰か個人に都合の良い論理が潜んでいる。意志も意図も作意も、賢いほど姿を見せない。

これらの対比は、実に不思議な相似をなしていないか……。(森博嗣著書 月は幽咽のデバイスより抜粋)



例えば、人は何故に人を愛するのか。

確かに、いくらかは説明のしようがある。しかし、それは野暮というものではないだろうか。

言葉で説明することで、冷めてしまうものも少なからずある、ということだ。

人は確かに知りたがりである。自分なりの解釈を見つけて、それに当てはめて満足しようとする。

そうすることで安心しようとするのだ。

知らなくてもいい、そんなこともある、ということを言いたかっただけなのかもしれない。知らないほうが幸せだったかもしれない、そんな気分の管理人からの一言でした。

というか、森さん本当にすごいなぁ……。脱帽します。感服かな?まあいいや(笑)

皆様もよければどうぞww
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希望ってのはな、絶望の向こう側にあるんだよ。

006.jpg

希望ってのはな
絶望の向こう側にあるんだよ
いつまでも幻想を追うな
数々の言い訳しながら
「本当の自分」探しするようにはなるな

誰の言葉だったかは忘れてしまいました。申し訳ない。

後悔

ただ一つ、後悔することがあるとすれば、他人を許容しようと思ったこと。

他人を信じたこと。他人を愛したことか……。

人を好きになった。

とにかく、心残りは、それだけだ。

それは、もう肌に刻まれたものと同じ。

その蟠りだけが、余熱のように残る。

決して消えることがない。

消えてほしくない。

(森博嗣著書の一節より)



人は何故、後悔するのだろうか。

後悔なんてしたことがない、なんて人はおそらくいないだろう。

後悔したくないなら何もしなければいい?

いや、おそらくは何もしなかったことを後で後悔することになる。

では、後悔するとはなんだろう。

なにかしらの行動を起こした後、その行動に対する嫌悪感とでもいえばよいのだろうか。

嫌悪感。果たしてそうだろうか。

生きていく上で、人は必ず後悔することがある。

しかし、それは不要な感情だろうか。

否。答えは否である。

何故なら、人は後悔することによって成長するからである。

同じ過ちを繰り返さないと心に刻み込む。それこそが後悔というものだと思う。

それならば、後悔するというのは、非常にシンプルで美しい感情だと思う。

考え方は人それぞれ?

人間は自分の生き様を見せること以外に、他人に教えることなど、何もないのだ。一般に使われている教育という言葉は、ありもしない幻想でしかない。

(森博嗣著書の一節より)



本当に大切なこととは、誰かに教わるものではなく、自然と身につけていくものではないだろうか。つまりは、身近にいる親や兄弟、そして友人たちがその対象である。

そもそも、日本の教育には問題だらけだ。英語を小学校から教えてどうするというのだろうか。使う機会のある児童など、ほとんどいないだろうに。英語など、英会話に一年通い、現地に放り出されれば、嫌でも習得することになる。仕事で使う場合は別ではあるが。

大学、または高校からでも十分だろうに。現に一体どれほどの日本人が常用的に英語を使うというのだろう。社会に出て、学生時代に学んだことをどれだけ覚えているだろう。否、それぞれの専門分野のことしか覚えてはいない。ほとんどの人は使う機会もないので、時とともにほとんどが忘却の彼方へと消えていく。正直、何も変わらないだろう。

また、「努力をすれば、必ず実る」などの綺麗事というか、嘘を言いすぎではないだろうか。努力をしなければ、もちろん結果はついてはこない。だが、徒労に終わる可能性もゼロではない。むしろ、人生には無駄なことがたくさんある。ならば、「努力するぐらいなら、誰にも負けないぐらいしっかりしなさい」と教えるべきではないだろうか。

そしてよく「平等」という名の監獄に押し込もうとするが、社会に一歩出てしまえば突然、弱肉強食戦国時代に突入する。そもそも人は生まれた時点で、すでに平等ではない。それは、誰もが分かっているだろう。所詮は己が力量を知り、自分に出来ることをするしかないのである。教師など、自分の保身しか考えていないただの愚か者である。というか、とても難しい仕事だと思う。教員免許の資格自体がそもそも取りやすすぎるのだ。結果、今に至るのではないか。

子供は本当にすごいと思う。感性が豊かで、発想力がずば抜けている。子供は皆、天才なのだと思う。そんな彼らの才能を、可能性をことごとく奪っているのは、我々大人だということだ。もちろん本人にも責任が全くないわけではないが、子供に何ができる?彼らの可能性を捻じ曲げて、社会の奴隷にしようとする親が増えてきた昨今の状態を芳しくは思わないが、子育てをしたことがない自分が言えることではないことも自覚はしている。

少子高齢化の進む日本。優秀な人材が多く必要である。しかし、政府のやることなすこと裏目にでてはいないだろうか。国民のことよりも、自分たちのことしか考えていないのではないだろうか。そんな風に感じさせてくれる日本政府。誰かとは言いませんが、「政権交代こそが一番である」みたいなことを言っていませんでしたか?いや、国民は?自分はそう感じました。あくまで自分は、です。感じ取りかたは人それぞれ。



あくまで独り言ですので。
名言2

地球の名言 -名言集-

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無断でごめんなさい。いつも楽しませて頂いております。
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